横浜建築都市学

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2007
建築講座2レポート「類似から見えるヒント」

テーマ:「映画そして/あるいは建築」
日時:2007年5月11日(金)18:00〜20:30
講師:梅本洋一(横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化課程教授)
司会:北山恒(横浜国立大学大学院Y-GSA教授)
会場:東京芸術大学大学院映像研究科 馬車道校舎
主催:Y-GSA+横浜市
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今回の論点は大きく分けてふたつあった。ひとつは「空間を捉える」ことが映画監督に求められる資質のひとつであるということである。

ゴダールの作品〈軽蔑〉のハイライトが上映され、例えば彼が舞台となる場所をどのように意識して映画を撮ったかが示された。カメラは藪の中を歩く脚本家と友人を追う。ふたりが藪から出ると白く乾いた断崖が、続いて深々と青い空と海が現れる。その境目、画面の中央に見える岬にはマラパルテ邸が掩蔽壕を思わせるように建っている。屋上に微かに見える人影はきっとブリジット・バルドーだろう・・・。

多くの人は空間を捉える手段を専ら視覚に頼る。現代人の多くは、空間を介して人が存在すると信じている。映画が視覚に訴える表現であるからには、そこには常に空間の概念が介在する。よって映画制作に携わる者は、撮影せんとしている空間を綿密に網羅している必要がある。前述のシーンは、マラパルテ邸のある場所の地理的、美的な根拠に十分に共感し、それが〈軽蔑〉の物語にどのように共鳴するかを把握していなければ成功しないだろう。それを一度のパンで処理したゴダールのエレガントな構成に、確かな驚きを覚えた。

ふたつめは映画の「モデルニテ=現代性」とは何か、ということであった。私は初め、モデルニテという概念は、映画の進化の過程で、ある時を境に叫ばれるようになった概念であるのかと誤解して聴いていた。まるでそれがフランス革命を機に興った共和制と同じようなポジションであるかのように認識し、結果混乱した質問を発して会場の失笑を買ったが、誤解は解けた。モデルニテは個々の作品を評価する際、ものさしとして使う概念である。
 映画は時折、制作された時代の世界が滲み出ることがある。それはふいに映り込むこともあるし、物語によって直接語られることもある。その時それは、その映画のモデルニテとして評価される。梅本氏はある有名な映画評論家の話を例に説いた。

彼は、ある映画をこれまでに何度も何度も観ていた。彼の父親がその映画にエキストラとして出演しているのだという。「もしかしたら父を見つけられるかもしれない。もしかしたら父は画面の向こうから私を観てくれているのかもしれない」----その映画とは〈夜と霧〉である。虐殺された膨大な数のユダヤ人たちを描いた映画に、彼の父親はまさに「出演」していたはずだ。映画のスクリーンは鏡のように私たちの姿を映し、そして残す。「映画を観るとき、映画もまたこちらを見ている」。多くの人の記憶に長い間残る映画には、必ずモデルニテがあるという。

もちろん、〈スターウォーズ〉の描く「遠い昔、銀河系の遙か彼方」の世界の物語に価値がないのではない。〈スターウォーズ〉は、公開当初は子ども向けのスペース・オペラと笑われたが、いまでは普遍的な親子愛を描いたものとして評価されている(もっとも、私は〈スターウォーズ〉にもモデルニテはあると思う。宇宙空間での軍事拡張が盛んだった20世紀後半において、宇宙船というガジェットが埃と手垢にまみれ、生活に溶け込んで描写されたという点で)。

建築は空間を操作する表現である。「空間を捉えること」は言うまでもなく、「モデルニテ」があること、つまり社会に対して何らかのフィードバックをもつことは建築を学ぶ身として度々求められる。社会との繋がりの強い建築には常につきまとう要件である。私は時折、その答えが見えなくなる。しかし今回、映画が建築と似た観点で評価されるという話に、私は共感することができた。建築を離れ、映画という双子を通して自分のフィールドを眺めたとき、私は建築に対して感じていたジレンマを少しだけ解消できたような気がした。
(岡田寬規)

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