前期 都市講座1レポート「タイトル」

テーマ:「水辺都市再生の戦略と水辺都市・横浜の再考」
日時:2007年4月25日(水)18:00〜20:30
講師:陣内秀信(法政大学工学部建築学科教授)+石渡雄士(法政大学大学院博士課程 陣内研究室)
司会:小林重敬(横浜国立大学大学院工学研究院教授)
会場:横浜開港記念会館 講堂
主催:Y-GSA+横浜市

まず陣内先生によるベネチアの水辺空間の紹介から講演は始まった。
ベネチアは感覚的な都市であり、水上都市、迷宮都市、祝祭都市、演劇都市、ヒューマンスケール、五感、エコシティというキーワードが挙げられた。水辺空間は光と影によって演出され、演劇的であるという。人々は水辺を楽しむ遊び心をもっており、増水さえも楽しんでいるようにも思えた。
 次に中国やバンコクでの、水辺と日常生活が密接に関係している様子が紹介された。バンコクにおける、日本と同じような塀で囲まれた普通の戸建住宅の目の前に運河が通っている様子を写したスライドで、日本でもこのような風景があり得るのではないかと期待させられ、印象的であった。
 アムステルダムやミラノにおいて、かつて物流の要であった水上交通は、モータリゼーションによってその機能を失い、一時期不要となった運河を埋め立てた時期もあったそうだ。しかし人々は運河の都市空間における重要性に気付き、物流のための運河から生活のための運河へと転用が図られた。そして日常生活のためのインフラとして、また非日常的な祝祭空間として利用され、水辺空間に賑わいが取り戻されているという。

続いて東京の水辺の変遷が紹介された。江戸の川辺の祭りの様子を描いた絵には、川辺に露店などが並び、川は舟であふれ、水辺を楽しむ人々が描かれていた。かつては日本でも水辺が人々のレクリエーションの空間であり、賑わいを生み出す仕掛けをもっていたことが感じられた。
 その後も、水辺からの見え方を考慮した建築や重要な施設が建てられたりするなど、人々は水辺を意識しながら生活ていたという。しかし高度経済成長期、東京オリンピックの頃になると、運河は埋め立てられ、その上に高速道路がつくられた。水辺はだんだんと都市の裏側として扱われるようになり、人々の意識の外に追いやられてしまった。

バブル期になるとウォーターフロントブームや工業用地の用途転換などによって、水辺が再び人々の身近に戻ってきたが、水辺空間はカミソリ堤防や水質汚染によって、利用しづらい状況となってしまっていた。また人々の意識も変化し、現在では「公」と「私」は明瞭に分けられ、屋台や舟の係留といった水辺の賑わいを生み出す仕掛けも失われているという。
 そこには管理と活用の問題がある。水辺空間を使う仕組みをつくるため、近代のパブリックの枠組みから脱却し、水辺をコモンズとして捉えなおすことが必要なのではないだろうか。これは何も水辺空間に限られた問題ではなく、都市の公共空間全般について言えるだろう。公共空間と私有空間が制度上明確に分けられ、人々の意識の中では公共空間は行政のものと感じ、私たちのもの(コモンズ)として捉えることがなくなっているように思う。
 陣内先生が関わっておられる品川の事例の紹介では、少しずつではあるが水辺の賑わいをつくるための仕掛けづくりが行なわれており、人々の意識が水辺に向き始めていることが感じられた。

石渡氏のお話は、海と川から見る横浜の都市の形成についてだった。17世紀の横浜の地図を見ると、大きな入り江に大岡川が注いでおり、入り江の先端には弁天社という神社が置かれていた。断面的に見ても海から荷物が運ばれて陸地へと流れていき、地域が層状に発達していったことがわかる。後に弁天社は移設され、厳島神社となり、横浜の都市域は拡大していった。今ではかつて海に突き出ていた厳島神社の鳥居は街の真ん中にあり、その名前によって、そこがかつて海であったことを知る手掛かりとなっている。
 横浜の近代建築の建ち方を見ると、海の方を正面として建てられており、人々の意識が海へと向いていたことがわかる。また大岡川との関係で見ても、川を中心として発達していったことがわかり、海や川が都市のストラクチャーとして機能し、現在の横浜の街の基礎がかたちづくられていることが理解できた。海や川といった水辺が、表層的なことだけでなく、横浜という都市の根底に深く関わっているということがわかるお話だった。

今回の講演は、現在の水辺都市としての東京や横浜の多くの問題点と共にその可能性に気づかされるものであった。しかしこの都市講座シリーズの大きなテーマである「都市の未来」という視点から見ると、不満の残るものであった。
 豊かな水辺空間は、元々東京や横浜が備えていたものである。治水が一段落した今、昔あった水辺空間をもう一度取り戻そうというのが、ここ最近の都市の水辺を語る際の語り口であろう。今回の講演もそういった内容であったと思う。もちろん今まで視界の外に追いやられていた水辺に目を向けるだけでもずいぶん進歩したのだろう。しかしそれだけでよいのだろうか。現代にふさわしい水辺との関わり方があるのではないか。
 今水辺を語るとき、その視点が後ろ向き過ぎるのだと思う。昔の人々は生活に必要であるという切実さがあったからこそ、水辺と関わっていたのではないか。その切実さを失った今、もう一度水辺空間を取り戻そうという時には、ノスタルジーで語るのではなく、新しい水辺との関わり方を考えていくことが必要であろう。その先にこそ、水辺都市としての東京や横浜の未来があるのではないか。それだけのポテンシャルを東京や横浜の水辺はいまだにもっていると思う。水辺は取り戻すものではない。

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