テーマ:「映画そして/あるいは建築」
日時:2007年5月11日(金)18:00〜20:30
講師:梅本洋一(横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化課程教授)
司会:北山恒(横浜国立大学大学院Y-GSA教授)
会場:東京芸術大学大学院映像研究科 馬車道校舎
主催:Y-GSA+横浜市
数年前に千葉にある「東京ディズニーシー」に行ったことがある。ディズニーランドは広大な隔離された敷地いっぱいにいくつかのエリアが設けられ、それぞれのエリアにある時代、ある場所をテーマにしたシミュラクル(造りもの)な世界が極めて精巧に、さまざまな仕掛けを用いてつくりあげられているのだが、私はあるひとつのエリアで妙な違和感を覚えた。「マーメイドラグーン」と名付けられたそのエリアは、海中を模してつくられているのだが、その他のエリアでは模倣とわかりながらもその設定を認識できたのに対して、そのエリアでは認識すらできない非常に薄っぺらな造形物に囲まれた場所であった。
おそらくそのエリアを特徴付けるのに決定的に欠けていたものは建築であろう。アラビアの建築や20世紀初頭のアメリカの建築がテーマに沿った場所の性格をつくり上げていたのは、そこがかつて実際に存在した建築に囲まれているからであり、そしてそこを訪れたことのない私たちは、さまざまな映像でその場所を体験したことがあったからである。テーマパークというすべてがつくり上げられたシミュラクルな場所においての、この例外的で局地的な場所性の欠如は、いかに建築と映像がメディアとして場所を表象しているかを再認識する機会となった。
「映画そして/あるいは建築」。今回の講演のタイトルであるこの言葉は、映画と建築の同一性と対立性を指し示している。映画は宇宙や未来都市、史実や異国の街並みといったものを同時代的にマスメディアとして人々に見せ、私たちにさまざまな視えないものをビジュアルイメージで与えてくれた。20世紀初頭の無声映画が「田舎―都市」(そこではしばしば帽子というアイテムが暗喩として使われた)という二項対立の構図を描き、小津安二郎が丸の内で働く男によってその時代の東京を描いたように、映画はさまざまな時代の都市を映しており、そういった意味で映画は視えない都市イメージを堆積してきたとも言えよう。
一方で建築も不可視な「空間」や、ときにそれ以上の巨大なものを顕在化させてきた。ある規模以上の建物が高密に集まった場所として「都市」が生まれ、そこにある高層ビルは「俯瞰」を私たちに与えた。このように概念であり実存でもある都市は、建築と映画によってかたちづくられてきたといっても過言ではない。
建築が「物体」で空間をつくりだす一方で、映画は「流れ」によって空間を映し出す。梅本氏が最初に紹介したJ. L. ゴダールの映画〈軽蔑〉ではマラパルテ邸とカプリの絶景が織り成すヴァナキュラー(地域的)かつ抽象的な空間が、あるタイミング、パンといった映画技術によって、さらに映画自体のストーリーと相まって、奥行きをもった豊かな空間として鮮やかに映し出されていた。次に紹介されたB. ベルトルッチの〈暗殺の森〉では、リベラ設計の会議場を通して、全体主義とそれを内側から支える人物とが、そしてファシズム建築のもつ空間のシンボル性がスクリーンの中に映し出されていた。あるいはそこに織り込まれた視覚体験は、私たちが実際にそこを訪れて感じる身体経験以上のものでさえあるのかもしれない。
講演会の終盤に北山先生から梅本氏に、非常に興味深い質問が投げかけられた。「映画には建築のように公共性という概念はあるのか」。その時梅本氏は、「映画が大衆娯楽である以上、そこにはさまざまな紋切り型が存在しなければならず、それらの要請されたエンターテインメントがある種映画の公共性である」というような回答をされたと思うが、私はこの回答に少なからず違和感を覚えた。公共性とは確かにその対象として大衆をもつが、それは迎合するようなものではなく、むしろそこにあるべきもの、内在している必然性のようなものであるはずだ。しかし梅本氏が講演の最後に語られた言葉、「自己の内面をただ深く映した映画よりも、スクリーンを通して時代や自身の姿を感じ取れる映画のほうが面白いと思う。私たちが映画を観るということは、映画も私たちを観ているということであるから」という言葉に、私は映画における公共性の示唆があったように思える。
建築が都市を生み出し、都市を増長させた。そして同時に建築は自らが生み出した集合体としての都市によって、その全体形の一部となることを公共性という言葉で突き付けられている。同様に映画も概念としての都市をつくり出し、イメージとして堆積してきたわけだが、映画によって私たちが住む都市を映画的に再認識するという言わば自己回帰こそが、無意識としての都市を暴き出し、ひいては私たちのメンタリティ——私たちのなかに都市があり、私たちが都市に住んでいるということ——の確認を促す、映画の公共性と言えるのではないだろうか。
建築と映画は都市をつくりだす主体として、あるいは都市を映し出す媒体として、私たちに都市を観せてくれる。