後期 都市講座2レポート「問う者」

テーマ:「Building-Thinking-Building」
日時:2007年11月30日(金)18:00〜20:30
講師:フェリックス・クラウス(建築家、Claus en Kaan主宰)
司会:鈴木伸治(横浜市立大学国際総合科学部准教授)
会場:横浜市開港記念会館 講堂
主催:Y-GSA+横浜市

まだ幼い甥や姪からは時折驚くような質問を浴びる。大人なら疑問にすら思わないような、何か根本的な本質を突いたような質問で、何と答えたら良いのかわからず言葉に詰まる。フェリックス・クラウスの問いはそれに似ていた。
まず、学生の頃に考えていたこととして「建築とはそもそも何であるのか」、そして今日建築家として考えることとして「建築のあるべき姿、建築家がどういう存在になるべきなのか」という二つの問いを皮切りに講演会は始まった。

彼は自身の問いに建築という媒体を通して答える際、「料理人のような、医者のような建築家になる」と言った。彼は建築と料理が似ているとして、「料理においてはシンプルなものでも美食の域へと達せる」とポール・ボキューズを例に挙げた。この精神はシンプルなもの(プラン・マテリアル等)を中心に据えた彼の建築にも見られる。また、監獄のようなホテルなどを「馬鹿げたプログラム」と言い放った上で、独自の調理法によって美食へと変貌させる。
医者は真面目で真剣であるべきであり、芸術性は必要なく、プロとしての責任が欠かせない職業であると述べた。講演中も幾度か「建築家の責任感」という言葉が発せられた。建築家の責任として、建物の改修、再利用に関わること、アーバンデザインに取り組むことの2点を挙げた。医者として彼を見るならば、手術によって一発で広範囲を治療する西洋的医学と鍼灸によって一点からじわじわと効果を拡大させる東洋的医学の両者を使いこなすことができる医者のようだと、彼の作品の説明を聞きながらそう感じた。

さらに彼の口から、驚くべき自身に対する問いが投げ掛けられた。「これらは建築と呼べるのか否か」。自分の作品を前にして、これは「建築なのか?」と問う建築家や学生がいるだろうか。自分が建築家や建築学科の学生である以上、そのアウトプットは建築であると、自動的に判断するのが常ではないだろうか。
彼の学生時代の問いと通じるものを感じ、建築家としての姿勢がいまだに変化していないことを実感した瞬間であった。

自分自身や他者に問い掛け、設計を通して答える姿からは、今回の講演会のタイトルである「Building-Thinking-Building」というよりも「Asking-Thinking-Building」に近いのではないかという印象を受けた。そしてそれが幾度となく繰り返されることにより、彼の作品は繊細さを増し、建ち現れてくる。芸術性や美しさを念頭に置いていない彼の作品を見た時に、それでもなお美しいと感じるのは、幾度もの「Asking-Thinking-Building」が集積し痕跡として表れてきているからではないかと思う。
一方で彼は、その痕跡が見られない作品を嫌う。彼が学生時代に尊敬していた建築家が、中国、ドバイ、ロシアなどの独裁者のためにつくっている建築をスライドに映し、「空虚さしかない」と嘆いた。私は、日本の都市や建築に対して同じことを感じる。「資本」という名のバック・ミュージックに合わせ踊り続ける東京などの大都市、そしてその中でアイドル的存在として期待されている六本木ヒルズなどの建築には、果たして誰に対して問い掛け、何度「Asking-Thinking」を繰り返したのかと疑問に思うところが多い。

最後にル・コルビュジエの〈ユニテ・ダビタシオン〉のスライドを映し、「マルセイユのそれは素晴らしいが、他の4箇所のものは自己模倣による失敗作だ」とし、僕ら学生に対して「目の前にしたものを決して模倣してはならないと」注意を促した。その一方で「今までに生み出されたものや蓄積された知識のすべてを活用し、自分たちの分野で活かすべき」と述べた。彼は自身の作品において視覚的、科学的側面でそれを実行していることを示してくれた。模倣と引用・参照の差異は、得た情報を自分なりの問いに変換し、自分のフィルターに通したかどうか、そこにあるように思う。

「建築に関わる者として、一生懸命に取り組み、その中でできるだけ楽しむこと」と、こう彼は講演を締め括った。「あなたは今、楽しんでやっていますか?」そう僕たちに問うているような気がした。
彼の表情、言葉がつくり出した空気に、いつの間にか包みこまれていた時間であった。

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