
August 11, 2007 11:27 PM | Category: 授業
僕らは大きな流れの中にいる。大きな、大きな、少し気を緩めたら吹き飛ばされてしまいそうな大きな時代の流れの中で、何か新しいもの、時代を更新するものの創造を目指して、僕らは夜な夜な製図室にこもり、ゴリゴリ前に向かおうとしているのである。時々、本当に前に進んでいるのか、自分がどこに立っているのか、どこに向かっているのかわからなくなる。それでも、眠たい目をこすり、リポD飲んで、先生にぼこぼこにされて、それでも自分が信じる道を前へ、前へと進むのである。新しい建築を目指して。
「建築をつくることは未来をつくることである」こんな大げさな、ほっぺを赤らめてしまいそうなマニュフェストを世界に掲げ、僕らの学校は今年の四月に始動した。超一流の現役バリバリの建築家四人を教授として、超一流の世界がうらやむ教育を、僕らはありがたく受けるのだ。そんな僕らに与えられた使命は、未来をつくる建築をつくること。
あー、むずかしい。いや、本当にむずかしい。胸が熱くなるような北山さんのエスキスに興奮して、建築の未来に夢を見て、アイデアをひねり出す。だけど、自分の中でひらめいたと思っても、模型にしたらかっこ悪くて、一日経ってみてみると、なんだこれ…。なんてことを何度も何度も毎日毎日繰り返している。建築を始めて5年、僕がつくった建築が未来をつくったか…。答えはもちろん否。そりゃそうだ。僕らは大きな大きな流れの中にいる。僕らの生まれるはるか前から、それぞれの時代の新しい建築を目指して汗水、鼻水、涙水たらして、それぞれの時代を全力で駆け抜けた建築家たちがつくりあげた今という大きな時代の流れの中で、僕らは必死にもがき始めた。まさに今、もがき始めたところなのだ。そんなに簡単に未来がつくれるか。そりゃそうだ。
そんな大きな時代の流れをつくった(つくっている)建築家の一人が伊東豊雄であろう。そんな彼の講演を聞かせていただいた。講演会場となった横浜開港記念会館の前に学生たちが列をなした。関東中、いやもっと遠くから足を運んだ学生もいたかもしれない。ともあれ、彼は僕らにとって今をときめくスター建築家であって、ヒーローなのだ。彼がつくっているもの、つくってきたもの、全てが人の心に響く素敵なものであったかはわからないが、彼は時代を更新し、そして彼自分自身も更新し続けた。彼の作品を並べてみると、そこには大きな系譜を見出すことはできるかもしれないけれど、一つ一つの作品、そしてゴミとなって消えていったスタディ模型たちに、その時、その時に新しい時代をつくろうと試みたエネルギーの端くれを見出すことができる。それらが成功したかは別として、それらは時代にインパクトを与え、夢見る学生、社会で闘う建築家たちの心を躍らせた。そんな彼が今目指すのは、納まりの美しさでも、施工の精度でもなく、もっと人間的で、もっと荒々しいものだという。おー、素晴らしい。彼はまだまだ彼自身を、そして時代を更新する。
講演会のあとの飲み会の席で気になることがあったので聞いてみた。多摩美の図書館のアーチの足元を細くしたことを彼がやたら講演中に得意げに話していたのが気になったのだ。1/1で建築が人の前に、重さを持ったものとして建ち上がったときに、細いこと(薄いこと、軽やかであること)が何を生むのか、果たして疑問である。彼の答えは「そー、そこなんだよ、君いいとこに気がついた」。少しほめられて?ほっぺを赤らめた僕をよそに彼は続けた。「ついやってしまうんだよ、僕も、所員も。みんな細く細く、薄く薄くすることをついつい目指してしまうんだよ」と。我ながら核心をついた質問であったのではないかと今でも思っている。そう、世界のTOYOでも、時代の大きな流れからは飛び出せないで、大きな流れのなかで泳がされているのだ。細さや、薄さや、軽やかさがその大きな流れの大きな部分を占めるかはわからない(まさにその大きな流れを俯瞰して視る目を持つことが、その大きな流れから飛び出す、つまり次の時代を、未来をつくることになるのだろう)が、少なくとも今の日本の建築が盲目的に流されている大きな流れのひとつであると思う。そんな流れのなかで彼ももがいている。建築ベイビーの僕らがもがかない訳がない。とことんもがいてやろう。死ぬまでもがいてやろう。こんな模型ゴミだといわれ、お前は馬鹿かと言われ、夜な夜な夜空を眺め涙して、それでも前へ進むしかないのだろう。前へ、前へ。
そういえば最近の新建築がいたって面白くない(例外はある)。何が新しいのか首をひねるような作品たちのオンパレード。うちの先生の作品が今月号に載っていた。どこに未来があるのか、ページの隅から隅まで探してみるけど、未来のかけらすらもみつからない。うーん…、やはり現実は、社会は厳しいということなのか。少しへこむ。先生の作品だけではない。そこそこ名をはせた今をときめく建築家たちの作品も堂々と載っているのだけれども、何も新しくも、新鮮でもなく、心ときめかない。作品のどこかに時代を更新しようとする意志のかけらを見出そうとしても見いだせない。現状に満足し、安易に流行のコピー&ペーストを繰り返したような作品で溢れてる。まことにつまらない。退屈である。これは大変失礼な、バカな学生のたわ言かもしれない。だけど僕はそう思うのだ。
上野千鶴子が福祉施設としての小規模多機能施設の話の最後を、「いいケアに、建築家は必要ない」という誠に挑発的な言葉で締めくくった。これは彼女の、この後に続く山本理顕との対談を盛り上げるための戦略であったのだろうし、誠にそうかもしれないけれども、誠に空間音痴のおばさんの誠に悲しい発言にしか聞こえない。そんなことはわかっているのだ。僕の実家は、その辺のちんけな工務店が建てた、ちんけなおうちである。だけど、そこには僕の家族がいて、ペットがいて、たくさんの思い出が詰まっている。そこそこ幸せな家族を過ごした素敵な家だと、自分の家を誇りに思っている。決して新建築の表紙を飾るような立派な建築ではないけれども、紛れもなく僕にとって最高の建築なのだ。どこかの偉い建築家が僕の家を建築的に素晴らしくないかをつらつら並べてもそんなことは関係ない。そして、そんなことはわかっている。それでも、僕らはまだ見ぬ建築が空間が、よりたくさんの人々、よりたくさんの家族たちの、より豊かでより快適な暮らしを包み込むことを想像して、創造する。彼女の知的で悲しい発言に僕らの想像力が負けるはずがない。負けてたまるものか。
松山巌氏の「新しさとは時代を超えることである」という言葉が心に残っている。新しいものは時代を超えるのだ。流行のなかでうたかたの泡のようにかつ消えかつ結びてかつ消えていくものではなく、時代の流れに耐えうる大きな楔を打つようなものなのだろう。かっこいい。そんなものをつくってみたい。
弱い犬ほどよく吠える。あーそうだ、不安で不安で仕方がない。今にも折れてしまいそうで、不安を吹き飛ばすために大きな声で叫んでいる。大きな声で叫んでいれば前に進めそうな気がするのだ。気がついたときには、そこそこのところに行けてたらいいなーなんて思ったりもする。けど、そんな甘くはない。こんなレポートで生意気なことをつらつら並べてる暇などない。そんなことばかりしてたらほんとに負け犬になってしまう。そんなことはわかっている。言葉ではなく、作ったもので語らなくてはいけない。口だけにならないように。建築家であるために。
(M1 青木 健)
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