
August 6, 2009 10:59 AM | Category: 山本
7月17日、18日、東大で建築教育会議というシンポジウムに参加した。Y-GSAの学生、学部の学生もボランティアで参加してもらったと思います。ご苦労様でした。
私のセッションはプリンストンのスタン・アレン(建築家)、コロンビアのマーク・ウイグリー(歴史家)それと精華大学(北京)のWeiguo Xu(ウェイグォ・シュー)それとUCLAの阿部仁史、それとY-GSAから山本、司会が東大の難波和彦、「グローバリゼーションの中の建築実務と教育」というテーマだったけれども、話し合われたのはもっぱらコンピューター・ワークの建築における位置づけのような話だった。
シューさんはパラメーターを与えて、それがコンピューターの中でオートマティックに形になっていくプロセスを見せて、いかに最初のイメージから実際の建築になって行くか、そのなめらかに連続するプロセスが重要なのだ、その連続性にリアリティーを感じるというようなことを言っていた。アメリカ人の二人ももはやコンピューターは単なるツールなのだから、いいも悪いもないよなあ、という意見だった。
でも、聞いていて、二人のアメリカ人も中国人も呑気だなあ、というのがぼくの感想です。ぼくはモーフィングの例を出して、モーフィングというのはmorphing、テレビでもよく見る豚の顔がなめらかに人間の顔になっていくような、なめらかに変形させるような技術のことを言うのだけれども、そのモーフィングによって豚と人間の顔がいかにも連続しているかのように見える。相互の関係になんの根拠もなくてもね。だからコンピューターの中で最初のイメージがなめらかに3次元の建築図面になってそれがプリントアウト(3次元模型にすること)される。なめらかに連続するようにね。でもそのなめらかさは必ずしもその建築のリアリティーを保証するものではない。仮にそれが3次元模型になったとしても、依然としてコンピューターの内側のモーフィングであるに過ぎないのである。できあがった形になんの根拠もない。
アメリカの建築家も学生も、こんなことやってるとしたら自分たちの置かれている状況に対してまるで自覚がないなあと思ったわけである。
アメリカの2000年代はネオコン的グローバリズムが徹底して敷衍された。そのおかげで世界中大迷惑だったわけでしょう。日本もアメリカ・ネオコン的覇権主義に徹底してやられちゃった。そのグローバリズムは地域に固有の文化や特性を徹底して破壊しようとします。世界中標準化(アメリカ化)しようとするわけだから、地域の文化は不純物のように見えちゃうんですね。その標準化はアメリカの地域社会そのものをも壊してしまった。例えばサブプライム・ローンで最も打撃を受けたのは、地域社会の普通の住人たちだった。
建築は固有の地域社会の中に実現するものだと思う。優れた建築の背後にには固有の地域社会の文化が必ず存在するものなのである。つまり、アメリカでは建築の固有性は必要とされていないのだ。建築は標準化された社会の中の単なる投資の対象でしかない。この人たちはそうした現実と全く向かい合おうとしない。だからコンピューターの中でコンピューター・ゲームに夢中になるしか建築家にやることがなくなっちゃっているんだと思う。もっと自覚しろよ。その時僕が強く感じた違和感です。
Permalink | Posted: Riken Yamamoto