
August 8, 2009 4:51 PM | Category: 山本
今、書いたブログの記事がどこかへ行ってしまったので、もう一度書き直さなくてはならない。なんだか扱いにくいソフトだ。
「そんなこと当たり前のことだ」と思っているその自分自身の感性を疑え、そこに大きな矛盾が実は潜んでいるはずなのだ、ということを昨日書いた。それで思い出したことが、4,5年前、鈴木成文さんと上野千鶴子さんとの対談である。『「51−C」家族を容れるハコの戦後と現在』という本に掲載されている。その対談で、鈴木さんはもはや新しいライフスタイルに対応する住宅のモデルなど、意味がない。むしろその外側こそを考えなくてはならない。対して、上野さんは新たなモデルをつくることは建築家の責任ではないかと問いかけた。二人の話が全くかみ合わなかったのは、単純に鈴木さんは与条件の内側つまり「1住宅=1家族」を前提にして考えている。上野さんはその与条件そのものを問題にしている、その差だったのである。「1住宅=1家族」の内側で考えるなら、新しいモデルなどもはや必要ない。
建築の設計教育というのは徹底して、与条件の内側で考える訓練なのである。少なくとも今まではそうだった。住宅の設計というと家族構成を与えられ、敷地を与えられ、その中で設計せよと言われる。図書館の設計でも、美術館の設計でも、常に与条件を与えられてその中で設計する、それが設計教育だった。それに対して、社会学者は与条件そのものを疑う、それが仕事である。
でも、本当は建築家の最も重要な役割は与条件を疑うということなのである。優れた建築はその時代、多くの人たちが当たり前だと思っていたようなことを徹底して問題にして、時にはその当たり前だと思っていることを徹底的に破壊する。それだけの破壊力を秘めているはずなのである。
与条件を疑うのは社会学者の専売ではない。私たちこそ、常に考えなくてはならないことなのだと思う。
当たり前だと思っていることを疑えというのは、そういう意味である。
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