August 27, 2009 12:09 AM | Category: 山本

山本です。世界は物によって構成されている

仲さんの指摘した、400人という単位の可能性についてですが、実はこの単位に建築の秘密があるように、最近思っています。
仲さんのいうとおり400人は少し大きめのマンションの単位であるとしても、その400人に決まったのは別に、この人数が最適であるということで決まったわけではなくて、敷地の条件とか経済的な条件などによって、たまたま400人程度になったのだと思います。でも、その400人程度で住み始めると、それがいかにも適正であるかのように見えてきてしまう。環境の側が400人を前提につくられてしまうと、それに私たちが適応してしまうのだと思う。
保田窪団地が120世帯、一人暮らしの人もいるので、大体、350人から400人ぐらいの間である。これも、たまたま今まで住んでいた人と、新しい入居者を加えるとそういう数字になっただけで、意図された数字ではない。
私見だけれども、適正な数字というのはないのだと思う。大胆な意見を言えば、それが適正かどうかを決めるのが建築なのだと思う。
ハンナ・アーレントという人は、世界は建築のような「物」によってできているという。(「人間の条件」)「物」をつくるのは「工作人」である。「工作人」のアイデアによって「物」ができているとしたら、「物」によって構成されている世界というのは根拠があってできているわけではない。「物」と「物」の相互関係は常に必然であるわけではない。多くの場合「物」と「物」とは偶然隣り合っている。そうした偶然の中にわれわれは住んでいるわけである。なんでそんな無根拠の世界に私たちが住むことができるかというと、そうした「物」たちが人間よりも遙かに長生きだからである。私たちが生まれて死ぬまでの時間、それ以上に長い時間「物」はそこにあり続ける。だから私たち一人一人にとっては「物」は生まれる前に既にそこにある。つまり私たち一人一人にとっては既に生活の与条件である。ということは「物」は個人にとっては常に肯定的にそこにあるわけである。
つまり、「物」によって構成される世界は偶然にできあがっていたとしても一人一人にとっては、それは必然なのである。
さらに飛躍すれば、「物」によって構成された世界がもしなかったら、私たちはどこで生まれてどこで死んだのか、それを記録することができない。言い換えれば共同体的に記憶することができない。「物」によって構成された世界は私たち共同体の記憶の空間なのである。
恐ろしいことに偶然的にできあがった「物」による世界が、私たちの記憶の空間なのである。
というようなわけで、400人のための空間をもし私たちがつくることできたら、それがそのままそこに住む人たちの記憶の空間なのである。
もし400人が一緒に住むとしたらどのような空間構成が可能か、という問いかけは、その空間がそのまま肯定されることが暗黙のうちに前提されているのである。
ハンナ・アーレントのいう、世界は「物」によって構成されているという意味は多分そういう意味なのだと思う。
清水建設との共同研究でも「地域社会圏」を取り上げたいと思う。実際に空間構成までつくりたいと思っているので、インディペンデント・スタジオに参加したい人は申し出てください。

| Posted: Riken Yamamoto

ページのトップへ