
September 23, 2009 10:41 PM | Category: 山本
「東京から考える」という本の話を昨日したけど、その本に即して、「地域社会圏」の話です。
東さんと北田さんの二人は東京という巨大な郊外の様々な地域の感想批評をしているけど、これを勝手に「地域社会圏」探しだと思って読むと面白い。
家族が「共同体内共同体」であるとしたら、今の社会は家族のその上位の共同体として国家を仮定している。西川祐子さんが「近代家族とは国民国家の基礎単位とみなされる家族である」というのはそのような意味においてである。家族と国家が媒介なしに直接結びついているのである。そうすると何が起きるかというと、それまで家族のその上位の共同体としてあった地域社会が排除されてしまう。つまり、家族がはだかで公共空間にさらされてしまうわけである。だから、一方で家族を収容する住宅は極めて閉鎖的につくられる。そしてその住宅によって構成される風景は「ファスト風土」と呼ばれるらしいのだけど、全国一律標準風景になる。「固有の地域性が消滅した地方都市の様相」のことを三浦展さんが名付けたのだそうである。
これが今私たちが共有している都市の風景である。確かに今、国家の運営システムは家族という単位を基礎単位として、それを前提に運営されている。そこから「ファスト風土」風景とは一直線である。
鳥瞰的に見れば私たちはそうした風景の中に生きているようにも見える。でも問題はそこからなのだ。現実の私たちはそれでは生きられない。家族と国家という関係は「共同体内共同体」としてはあまりにも無理がある。一方が巨大すぎる。抽象的すぎる。上位の共同体として実感できない。だからその矛盾をなんとかして解消しようとして、私たちは無理算段して、「共同体内共同体」という関係を作ろうとするのである。方法は二つである。一つは家族という単位を保存するために、その外側に擬似的な地域社会を仮構するのである。小さな子供を媒介にするテンポラリーな地域社会、あるいは過去に存在した地域社会。そうしたものを頼りながらかろうじて「共同体内共同体」という関係をつくる。もう一つは家族に変わって別の「共同体内共同体」を仮構する。
方法は二つである。一つは家族という単位を保存するために、その外側に擬似的な地域社会を仮構するのである。小さな子供を媒介にするテンポラリーな地域社会、あるいは過去に存在した地域社会。そうしたものを頼りながらかろうじて「共同体内共同体」という関係をつくる。もう一つは家族に変わって別の「共同体内共同体」を仮構する。二人の話を聞いていると、森川嘉一郎さんの「趣都の誕生」はそういう側面を扱った本なのだろう。
「国家ー家族」図式の矛盾を私たちはそれぞれになんとか解消しようとしている。家族の外側に擬似的な地域社会を作るか、あるいは、家族に変わる擬似的な「共同体内共同体」を作るか、そのどちらかである。東さんと北田さんの話はその両者の間を行ったりきたりしながら郊外について、国家について、ナショナリズムについて、生殖について、家族についてはなしをしている。
建築という空間の側から見るとそう見える。それが面白かった。
つまりわれわれの「地域社会圏」の話に戻ると、そうした擬似的な地域社会でもなく、あるいは擬似的な「共同体内共同体」でもなく、実際に空間的に建築的に「共同体内共同体」をつくってしまおういうことである。
擬似的なのかも知れないなあ。400人に根拠があるわけでもない。でもとにかく400人を単位にしてどのような共同体が可能か。その可能性を考えようということである。400人は「共同体内共同体」の上位の共同体である。下位の共同体が家族である。勿論、東さんのいう意味での多様性をもった家族である。
「国家ー家族」図式の家族単位で考えるよりも圧倒的に説得力のある単位であるはずなのだ。それを証明したい。というわけで「地域社会圏データ」をつくりたい。
Permalink | Posted: Riken Yamamoto