2009年12月

December 8, 2009 12:45 PM | Category: 山本

山本です。「地域社会圏データ」について

最近、INAXの本をつくるために、何人かの僕のお会いしたいと思っていた人に話を伺うチャンスがあった。例えば東浩紀さん、フランス近代史の研究者の中野隆生さん、僕の師匠の原広司さん、あるいは建築家協会の企画で、政治思想史の研究者の原武史にも話を伺った。東さん、中野さんはこのブログでも触れたことがあるけど、原武史さんには始めてお会いした。「滝山コミューン」という猛烈に面白いドキュメントを書かれた人で、是非、話をしたいと思っていたのである。原さんは電車オタクとしても有名でもある。西武線沿線の住宅団地がいかに他の沿線、例えば東急沿線と違うか。その特徴はなんなのか。1970年代の初頭に滝山団地に住んでいた時のドキュメントが「滝山コミューン」である。原さんの小学生の時の記録である。小学校を中心としていかに政治的な空間がそこを支配していたか、それをはらはらするような状況と共に描写して、小学生の時の記憶をそのままドキュメントにできるとはすごい、と思わず感嘆してしまった。小学生の原さんのトラウマになるほどその政治性は強烈だったのだ。話をしていて面白かったのは、当時の団地という空間が全くの政治的な、あるいは宗教的な無菌状態だったということである。一緒にシンポジウムに参加した都市機構の井関さん、井関さんは東雲の計画の担当責任者だった人である、その井関さんの話では住宅公団(今の都市機構)の計画地は徹底して宗教的、政治的空白地域をその対象地として選んだのだと言う。神社仏閣の側にはつくらない。既存の地域コミュニティーが強いところにはつくらない。それが鉄則だった。つまり、できあがった団地は全くの政治的、宗教的無菌状態だった。そういう場所としてつくられたのである。そこに一気に接近したのが日本共産党と創価学会だった、当然だろうと思う。無菌状態の無防備な人ばっかりだったんだから。それと団地という「1住宅=1家族」単位の集合体は一軒一軒オルグするには最適な空間である。「1住宅=1家族」という単位が相互に完璧に切り離されているからである。もともとそのように計画されているのである。西武線沿線の住宅団地は共産党と公明党のオルグの場所として、最適地だったのである。
原さんは学者である。中野さんの時にも感じたけど、そのデータを集める執念深さはすごい。だから人を惹きつける文章が書けるのだと思う。ネットで調べて、はい、データ、それじゃあ論文にならない。

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| Posted: Riken Yamamoto

December 13, 2009 11:23 PM | Category: 山本

山本です。'地域社会'はインフレ状態

最近はコミュニティーという言葉がインフレ状態だ、と東北大の社会学者の吉原直樹さん。11月20日のシンポジウムの時の話である。確かに今日(12月13日)の新聞の読書欄にしても地域社会やコミュニティーに関する話題が多くなっているのが分かる。ぼくの学生の頃は全く逆だった。コミュニティーなどというと笑われた。それも鼻の先で笑われた。そんなもの誰が信じるか。実存、主体、自由、疎外という言葉は当時、多くの私たちが暗黙に共有している言葉だったけど、コミュニティーは最も恥ずかしかった。家族などといっていた私はかなり恥ずかしかった。磯崎さんは「都市住宅」という雑誌の誌上コンペで「父を殺せ、母を犯せ」等とアジっていた。今、思うとこれも結構恥ずかしいけど。
コミュニティーというのはイデオロギーではなくて、不可避の関係だと思う。コミュニティーの内側にいないと生きてゆけない。そういう関係として考えた方が現実を説明できるように思う。東浩紀さん、藤村龍司さんとの鼎談でも、つい最近お会いした金子勝さんとの話(中村拓史さんとの鼎談)でも、それが話題になった。東さんとはコミュニティーは、既に崩壊しているようでいて、しっかり生きている。それは今は擬似的なコミュニティーにしか見えないけど、実は大きな働きをしているのではないかという話をした。金子さんとは、コミュニティーはもっと鍛えられる。今の経済原則を超えて強靱な仕組みを考えることができるはずだというのが金子さんの指摘だった。
イデオロギーとしてではなくて、現実にあるものとして、コミュニティーについて話をすることができるようになったというべきなのかも知れない。コミュニティーという言葉のインフレはいいことなのだ。

| Posted: Riken Yamamoto

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