April 2, 2010 6:59 PM | Category: 山本

山本です。「ものをつくる人」に対する見えない偏見

建築家は今の社会から何を期待されているのか。あるいは建築家はその建築を誰のためにつくろうとしているのか。それが今ほど分からなくなっている時代はないと思う。誰のために何のためにつくっているのか。この本質的な論議が今ほど空虚に聞こえることはこれまでにもなかったように思う。なぜなんだろう。小田原の「城下町ホール」の山本案に反対する人たちの建築というものに対するあまりの偏見に出会って、そういうことを改めて考えた。
「ものをつくる人」たとえば技術者、建築家、デザイナーに対する見えない偏見が日本という国全体を覆っているように思う。ところが、多くの人はその自らの偏見に気がつかない。だからこそ、その偏見によって「ものをつくる人」を平然と批判することができるのである。「ものをつくる人」を批判することによって、自らがいかにも文化人、古い言葉で言うとインテリゲンチャ、もはや死語になっているけどね、その文化人を装っている人たちがいかに多いか。ステレオタイプの箱物批判の陰にそういう人たちがいくらだっている。
なぜこんなことになってしまうのか。日本は特にそれが激しいけど、実はこれはマルクス以降の近代社会に特有の病理なのだということを50年も前に解明した人がいる。ハンナ・アレントの「人間の条件」を読んでください。ぼくはこのブログでもよくアレントの引用をするけど、実はすごく読みにくい。読めといっても読むのは大変なのだ。たぶんこの本を訳した人ができるだけ忠実に訳そうとしたからかも知れないし、あるいはアレントの英語文が読みにくいのかもしれないなあ。

そこで山本流読み方で「人間の条件」を読んでみる。

アレントは人間の「活動的生活」(vita activa)を三つに分類する。
1. 労働(labor)((人と生命との関係における活動的生活)
2. 仕事(work)(人と物との関係における活動的生活)
3. 活動(action)(人と人との関係における活動的生活)
この三つである。古代ギリシャの人たちはこのように考えていたというのである。
人間は常に何らかのかたちで条件付けられている。その条件付けられた人間の活動はこの三つに分類できるというのである。それが「活動的生活」である。
一方に条件なしの活動がある。
無条件の自由である。
それも三つに分類される。
1. 肉体の快楽
2. ポリスの問題に捧げられる生活
3. 事物の探求と観照
観照というのは聞き慣れない言葉だけど、簡単に言うと深く瞑想することである。「理論化する思考のこと」だと考えればいい。自然界の現象を一定の見方で理論化することである。ピタゴラスの定理だとかアルキメデスの原理だとか、そういう原理的な思考そのものを指している。この三番目の事物の探求と観照がもっとも尊重されるべき自由であった。古代ギリシャでは、すべての活動はこの探求と観照のために捧げられなくてはならない。
肉体の快楽はそのまま消費されてしまう。ポリスの問題は、単に技術としての政治的問題とお互いに自由人としてそこで振る舞うという二つの側面を持っている。単に被統治者に対する支配という意味だったら、それは自由人の振る舞いではない。こうして無条件の人間として観照する人間が唯一の自由な振る舞いとして認識されるわけである。

そうした考え方の中では「活動的生活」はどう考えられるかというと、観照する人をサポートする活動である。
「労働」は生命維持のために不可欠な活動である。古代ギリシャでは奴隷の活動だった。

今日はここでおしまい。気が向いたらまた続きを書きます。

ハンナ・アレントは古代ギリシャのポリスの生活や活動を再解釈して、今の時代の私たちの考え方の中にそれが深く影響していることを説明する。あるいはその古代ギリシャの考え方を近代人たちがどのように受け止めてきたのか、それを説明する。「ものをつくる人」がなぜ今偏見の中にいるのか、それが極めて説得的なのである。

来週から末光さん、仲さん設計のスタジオでY-GSAの課題が始まる。山本スタジオを希望する人は「地域社会圏モデル」(INAX出版)を読んでおくように。

| Posted: Riken Yamamoto

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