April 24, 2010 6:24 PM | Category: 山本

山本です。「物によって作られる世界」という意味。

なぜアレントが重要かというと、ハンナ・アレントは、「物によってつくられる世界」と人間の諸活動とを最も本質的な問題として考えたほとんど唯一の思想家だと思うからである。「人間の条件」には「世界」という言葉が頻繁に出てくる。その世界とは「物によってつくられる世界」という意味である。ところが,アレント解説書をいろいろ読んでみたけど、多くの解説者はその「物によってつくられる世界」という意味を理解していないように思える。人間は「物によってつくられる世界」に拘束されている。その中で生まれてその中で死んでゆく。人間は死んでいってしまう。諸活動はその都度記憶から失われていってしまう。その失われっていってしまう人間の諸活動をそこに刻んで「永遠の宇宙」(同掲書p34)に接続するのは「物によってつくられる世界」のその物との関係においてなのである。人間の活動はそのままでは永続性がない。活動のその瞬間から消費されていってしまう。「物によってつくられる世界」の中でその世界に刻印されるからこそ、その活動は永続性を獲得できるのである。
「死すべきものの任務と潜在的な偉大さは、(無限の中にあって住家に値する、そして少なくともある程度まで)住家である物を生みだす能力にある」(同掲書p34)(括弧は山本による。わかりにくい文章なので括弧でくくった。)つまり、一人一人の人間には寿命があるけど、その人間が生みだす住家には永遠性がある。ある程度とは言っているけど、それは個人の生の時間に比べたら圧倒的に長い時間である。でもそのおかげで「死すべきものは、それらの物によって、自分を除いては一切が不死である宇宙の中に、自分たちの場所を見つけることができたのである。」というけど、この文章はすごくわかりにくい。でも、すごく重要なことを言っているので、単純に、もう一度言えば、永続性のある住家とはそれは建築のようなものであり、その建築によってつくられる都市景観のようなものである。それをアレントは世界という。物によってつくられる世界である。そして人間の活動はその世界の内にある。世界の内にあるからこそ永続性を獲得できるのである。「住家」のことを建築や都市といったけど、これはかなりの程度山本解釈だからね。でも「物によってつくられる世界」があるからこそ、そこで人間はその中にいる他者と共に(ある程度の)永続性を獲得できるのである。このまったく同じ箇所を「ハンナ・アーレント入門」(杉浦敏子・篠原書店、言っておくけどこの本はいい本だと思う)ではまったく違う解釈になっている。引用した箇所を受けて、次に杉浦さんはこう言っている。
「そうした他者がいる場が公的領域なのである。その意味でアーレントの公共性の概念は、自然的な過去性を引きずる所与としての共同性ではなく、個々人がつくり上げていく公共性の側面を強くもっているといえる。」ここには「物によってつくられる世界」あるいは「物」という言葉がまったく出てこない。「物」あるいは「物をつくる能力」についてアレント(アーレントと表記すべきなのかアレントなのか、どっちでもいいと思うけど、山本事務所のドイツ人スタッフに聞いたら、彼の発音はアレントだった)がしゃべっている箇所なのに、である。そしてその引用箇所からの結論はまったく違うものになっている。杉浦さんの解釈では、「物」以前に他者がいる。確かにポリス(公共空間)は他者と共にある場所である。その他者と共にどこにいるかというと、どこでもいいわけではなくてポリスでなくてはならない。つまり「他者と共にある場所」(ポリス)によって個々人は拘束されているのである。ポリスは政治の場であると同時に物理的な空間である。政治の場は「物」によって構成される空間である。アレントはそれを言っている。物によって構成される現実的で具体的な空間を「世界」とアレントは言ったのだけど、そのアイデアはハイデガーの「世界内存在」というアイデアの影響である。(これは杉浦さんの本で教えてもらった)個人とは「世界」の内にあってはじめて自由な個人なのである。あるいは「世界」の内にあってこそ他者と共にいるのである。「個々人がつくりあげていく公共性」と言っても、すでにその個人は「世界」の内にあって「世界」に拘束されている。
実は、ここが分かれ道なのである。
「物」の世界の内にある、「物」によって拘束されている、という意味は、その空間がなければ政治的関係すら成り立たないという意味である。政治は空間の中にある。「物」によって構成された「世界」の内にあって、初めて人間の様々な活動(activity)は可能なのである。さらに言えば「世界」はその活動(activity)自体を共同的に記憶する場所である。だからこそ永遠性のある「住家」であることができるのである。そういうことをアレントは言っている。
世界は物によって作られているというその「物」という意味が、なかなか多くの人に伝わりにくいという例をもう一つあげる。
「世界は人為的なもの、人間の手によって作られたものを表すと共に、人間の手になる世界に共に生きる者たちの間に生起する事柄をも表している。世界に共に生きるということは、ちょうどテーブルがその周りに席を占める人々の間にあるように、物事からなる世界がそれを共有する人々の間にあるということを本質的に意味している。」(p79)という文章を引用して、斉藤純一さん(「公共性」岩波書店)はこう続ける。「(物によってつくられる)「世界」という意味での公共性はひとまず置くとして」と斉藤さんは言う。公共性とは「私が他者に対して現れ他者が私に対して現れる空間である」(「公共性」p39)というのである。物による世界、世界という意味での公共性、それはひとまず置くとして、って言われてしまうくらい、「世界」はどうやら扱いにくいらしいのである。斉藤さんにとっても公共空間はつまり言論の空間である。あくまでも人と人とのコミュニケーションなのである。そこには「物としての世界」という場所の概念がすっぽりと抜け落ちているように思える。この引用の箇所に続いて、アレントはこういう。たとえば仮に手品のように「突然テーブルが真中から消えるのを見る。そうなると、互いに向き合って座っている二人の人は、もはや、何か蝕知できるものによって分離されていないだけでなく、互いに無関係になるのである」
ね、すごいでしょ。テーブルが無かったら人間の関係自体が成り立たない、無関係になると言っているのである。アレントは物による世界ということを確信していた。物の世界こそが公共空間であり、そこで人々ははじめて活動が可能なのである。
建築や都市景観のような「物」こそが「世界」であるという解釈は山本解釈が相当強く反映しているけど、たぶん多くの人はこの解釈に賛同しないと思う。「物」に対して強い偏見があるからである。それはアレントが警告しているように「労働」(labor)と「仕事」(work)の区別が近代社会から失われてしまったというところに起因している。近代人としての私たちの内側に「仕事」(work)の成果としての「物」に対する偏見が潜んでいるからである。アレント自身が言っているのだけども、多くの近代人は「労働」(labor)と「仕事」(work)に区別があるということに同意しないだろうというのである。だから、アレントの解釈をするときに「物」はたかだか人間の作ったものなんだから、そんな物によって世界が構成されるといっても、その意味がわからないのだと思う。
古代ギリシャでは「物」と「世界」は密着していた。物によってつくられた世界の内側にいるということが彼らの実感だったのである。
そこで古代ギリシャ人の気分になってみる。ぼくは実際そういう体験をしたから言っている。原広司さんと一緒に集落の調査に行った時の鮮烈な体験である。大学院を出た後すぐだったから、25歳前後である。イタリア半島を南下して、フェリーでギリシャに入ってアテネまできた。ずっと車を運転してきたのである。アテネまでは山道だった。そこでいきなり視界が開けてかなり高い視点からアテネの町を一望したのである。その瞬間、思わず息をのんだ。平らなアテネの町の中心にアクロポリスが屹立して、そこにパルテノン神殿があった。アテネの町と共にあった。そこに屹立する風景の全体がパルテノン神殿の風景だったのである。
古代ギリシャ人たちはパルテノンと共にこの風景の全体をつくったのである。この景観が彼らの世界であったということが分かる。そういう風景なのである。このパルテノンの風景はアテネ市民にとって永遠を意味するものだったはずなのである。永遠の風景を信じることができた。それがわかった。アレントはそうしたギリシャの都市景観を、もちろん遺跡だけど、それを実際に見て彼女の理論を構築しているはずである。彼女もパルテノンの風景に感動しているのである。その感動と共にソクラテスに深く共感するのである。アレントがすばらしいと思うのは、そして彼女が卓越していると思うのは実際の彼女の感受性と共に理論がつくられているからである。単純に言うと生々しい。私たち建築家(ものづくり)にはそれがわかる。たぶん今の社会のなかでは特権的にわかる。物をつくるという感受性と共に私たちは考えるからである。

| Posted: Riken Yamamoto

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