April 11, 2010 11:27 AM | Category: 山本

山本です。「労働」(labor)と「仕事」(work)

「労働」(labor)に最も高い価値を置くというマルクスの解釈は、もちろん歴史の必然という唯物史観に依っている。「労働」(work)は奴隷の活動であった。労働は労働する人の意志とはまったく無関係にある。労働そのものではなく、労働力に価値があるのである。当時も産業資本にとって均質な労働力は利潤に直接つながる最重要テーマだった。「労働者」問題が時代の中心だったのである。1848年にエンゲルスと一緒に「共産党宣言」を書いているけど、1848年はパリの二月革命の時である。その年の三月は二月革命の影響でドイツ各地に「三月革命」といわれる暴動が起こる。マルクスはそのまっただ中にいたわけである。労働者の時代が来るというのは当時の人たちにとって最も熱い思いだったはずなのである。最も虐げられた人たちが次の歴史を担うという、その歴史の必然というマルクスの考え方が多くの人たちを勇気づけたのである。
ところで「労働」(labor)に最も高い価値を置く一方で、いかにしたら辛い労働時間を短縮できるかということも課題だった。結局、労働時間がゼロになればいいのか、それこそ「労働」(labor)という概念に高い価値を与えるという、その考え方自体の矛盾だろうというのがアレントの批判である。マルクスの時代とアレントの時代の"熱い思い"はまったく違うにしても、この指摘はまったくその通りだと思う。私たちの活動が労働力としてカウントされてそれに対価を支払うというのは今でもまったく同じである。(できるだけ少ない時間働いて、できるだけたくさんの給料を獲得したい、という今でもの日本の労働組合の活動方針である)
「〈活動的生活〉は世界の物の中で営まれるが、この"世界の物"は、労働の生産物とは非常に異なった性格をもっており、労働とはまったく異なった種類の活動力によって生産される」つまり「仕事」(work)の産物である。「永続性と耐久性がなければ世界はあり得ないが、それを世界に保証するのは、世界の部分として眺められた仕事の産物であって、労働の産物ではない」労働に求められるのはばらつきのなさである。「労働」(labor)の集約そのものが労働力なのである。「労働」(labor)の成果は何かというと、その労働力がカウントされるだけである。誰だっていい。「労働」(labor)の結果何が生み出されるか労働者は知る必要がない。労働する者はすべて同じ労働力を持っていると近代産業社会では認識されるのである。それに対して、「仕事」(work)は耐久性のある"物"をつくる。すべての活動はこの「耐久性のある"物"の世界の内部にあるのである」世界というのは"物"によってつくられる世界である。人間はその世界の外に出ることはできない。その世界のうちで生まれて、その世界の中で死んでゆくとしたら、その物をつくる「仕事」(work)は自分が何をつくるのか知らなくてはならない。明らかに「労働」(labor)とはまったく違うのである。アレントは「労働」(labor)と「仕事」(work)の区別を指摘しても多くの人はそれを理解できないだろうと言うけど、私たち"ものづくり"は理解する。私たちのつくる"物"の中で生活する人々をずうっとみてきているからである。直接的にその人たちのためにつくるからである。
アレントがすばらしいのは、"ものづくり"彼女の言葉で言えば「工作人」こそが世界を形作っているという認識である。"ものづくり"に対する評価は「労働」(labor)する人の労働力をどうカウントするかという評価とは根底的に違うということを、根源的なところにさかのぼって説明する、その思想がすごい。

| Posted: Riken Yamamoto

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