
May 2, 2010 12:32 PM | Category: 山本
パルテノンが「物」であるということ、あるいはベルンの風景が「物」によって構成されているということは理解が難しいだろうか。ひょっとしたら難しいと思う。私たちの常識的な理解では、あらゆる「物」は必要に応じてできあがるものだからである。パルテノン神殿やベルンの町がそのまま「物」であるという解釈はちょっと私たちの常識とはなじまない。私たちの常識的な解釈ではそれらは「物」以上の「存在」なのである。あらゆる「物」はせいぜい単に有用だからそこにあると思っている。実はそれが「物」に対する近代という時代に固有の解釈である。近代建築理論は「機能」といった。建築に限らずあらゆる「物」は機能的でこそあるべきだ、というのはすでに多くの私たちの常識である。自動車にしてもコンピューターにしても醤油差しにしてもテーブルにしても建築にしても、である。劇場をつくるときも、美術館をつくるときも、市役所をつくるとも、住宅をつくるときも、いつも私たち建築家が言われていることである。使う人のことを考えてね。使いやすくね。「人工物」は機能的であるべきだ、という思想は私たちの社会の隅々にまで行き渡っている。
実はそれが間違いなのだとアレントは言う。「物」は有用だからそこにあるわけではない。単に、今、利用できるという理由でそこにあるわけではない。今だけではなくて未来に向かってつくられている。
ちょっと長いけど引用する。
「物の人工的な世界、つまり〈工作人〉によって樹立される人間の工作物は、死すべき人間の住家となる。そしてその安定性は、人々の生命と活動の絶えず変化する運動に持ちこたえ、それを超えて存続するだろう。しかし、それは、この人工的世界が、消費のために生産される物の純粋な機能主義と使用のために生産される対象物の純粋な有用性とを、ともに超越する限りにおいてである」(同掲書p272)
必要によってつくられる「物」消費のために生産される「物」機能だけの「物」そうしたものは「人間の住家」をつくらない、と言うのである。
つまり、私たちがつくる建築がただ有用である機能的であるという、それだけの理由でそこにあるとしたら、それはもはや「世界」をつくる資格がない。それは消費されるためにのみそこにある。そのような物になってしまう、という。アレントは建築のことをどこまで知っていたのだろうか。「物」とは言っているけど、そこには建築的なイメージ、都市的なイメージが色濃く漂っているように私には思える。「世界」は「人工物」によってできている。「世界」は「an"artificial "world of things」であって、それ以上でも以下でもない。
どんなに長い歴史をもった建築であっても、どんなに美しい都市景観であっても、それは「工作人」がつくった「物」なのである。「工作人」の意志が介在している。
この本が出版されたのは1958年である。それまでのCIAM的な考え方が批判され始めるのが、1956年のチームⅩ以降である。アレントは近代建築批判、機能主義批判をしているようにも読めるけど、建築家たちの活動を知っていたのだろうか。
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