May 3, 2010 6:05 PM | Category: 山本

山本です。コペルニクス的転回

建築などによってつくられる人工的な環境「世界」(an "artificial" world of things)は私たちが思っているよりも遙かに私たちの日常的な「活動」(activity)を強く拘束している。でも、常にその環境の中にいる多くの人たちはその「拘束性」に気がつかない。空気がないと生きていけないけど、日常生活の中では私たちはそれを意識していない。それと同じだ。でもひょっとしたら「工作人」(ものづくり)だけが実感としてそれを感じ取っている。どんな建築家であったとしても、それを感じる感受性の違いはあるにしても、建築家はその空間の拘束性については極めて注意深いはずである。設計をするときは常にそこを考えている。〈工作人〉の意志が介在するというのはそのような意味においてである。その建築をつくってしまったら、その建築がどのようにして「活動」(activity)を拘束するのか私たちは良く知っている。でも、多くの人たちは人工的な環境が私たちの「活動」(activity)を拘束しているなどとは夢にも思わないようなのである。建築は必要に応じてできているにすぎないと思っているからである。だから、建築家たちがそこにいかに注意深いか、そんなこと考えることもできないのである。
非常に卑近な例を挙げれば、たとえば姉歯事件である。姉歯は鉄筋量をごまかすことで少しでもローコストを計ろうとした。そんなことをしたら将来どういうことになるか分かっていたはずである。鉄筋量をごまかすことが注文主の要請であると思った、あるいはそれを要請されていると思い込んで、決断したしまった。こんなことをしたら将来どうなっちゃうか、ということよりも身近な利益、身近な注文主の要請を最優先させたのである。注文主の要請か、それとも未来か、建築をつくっているとこうしたことは頻繁に起こる。鉄筋量をごまかすなんてことは論外だけど、こんなことしたら将来どうなっちゃうか、それは常に問われる。でも注文主はそれを考えない。公共でも民間でもである。目先のことしか考えない。建築は機能的にできている。今の要求を満たせばそれでいいと思っているからである。でも、その注文主の要請を超えて、こんなことしたら将来どうなっちゃうか、それを考えるのが〈工作人〉の「仕事」(work)である。今か未来か、私たちはその間で「仕事」(work)をしている。姉歯的アポリアは〈工作人〉の宿命なのである。そのアポリアを理解する発注者あるいは利用者は日本では極めて少ない。
人工的な環境によってどれだけ私たちの日常が拘束されているのか、それは多くの人には自覚できない。その環境の内側にすっぽり入り込んで、それが自らの関心の対象にはならないからである。その環境に同化してしまっているからである。
ハンナ・アレントはそれを指摘した。世界は人工物によってできている。「世界」とは「an"artificial "world of things」のことである。よくぞ言った、と思う。この本の真骨頂である。でも、多くの人にこのアレントの思い切った発言は伝わるのだろうか。
コペルニクス的な転回だと思う。天動説が地動説にひっくり返るような逆転である。人工物は人間のつくるものだというのが私たちの常識である。あらゆる人工物は利用する人が「ものづくり(工作人)」に命じてつくらせるものだというのが多くの人たちの常識である。それを逆転しちゃったのである。逆に人工物が私たちの「活動」(action)を拘束している。それが「世界」だというのである。これはアレントの考え方の中でももっと評価されていい考え方だと思うのだけども、あまり取り上げられない。その重要さが認識されていないように思う。
私たち「ものづくり(工作人)」にとってはそのアレントのいう逆転された関係の方がより実感に近い。でもそれを言う人は今まであまりいなかったように思う。多くの人たちにとっては「何それ」なのである。理解の範疇にない、というよりもそんなこと考えたこともないのだと思う。そこに私たち「ものづくり」の困難さがある。
ものづくり「仕事人」の「仕事」(work)は注文に応じる「労働」(labor)だと今でも思われているからである。

「人間の条件」という本は、この本の核になる部分が入れ子構造のようになっていて、読み手が読み間違えるとその入れ子の核の部分にたどり着けないという構造になっているようなのである。この本のモチーフの中心は「世界は人工物によってできている」というところである。人工物によってできている、そういう環境を「世界」と呼ぶ。読み間違えるとしたら多分ここである。こんなへんてこなことを言った人は今までにいない。いや、よく知らないけどいないと思う。だからそこにあまり注意を払わない。でもそれは極めて重要な発見なのである。読み間違えるかどうかはその次に演繹される文章である。人工物によってできているんだから、私たちの意志で「世界」なんていつでも変えられる、そう言っているのである。そうは言っていないけど、必然的にそうなる。ここがこの本の核の部分である。
入れ子状になっているという意味は、「世界」の内側にいる私たちはその「世界」に拘束されていることに気がつかないという、そういう「世界」の構造そのものである。読み手がそこに気づかないと、その核の部分にたどり着けないのである。意図的だとしたらすごい本だね。 
私たちは「世界」に拘束されている。「人工物によってできている世界」(住家)の内側に住んでいる。だからこそ私たちの生活の秩序が保たれている。私たちがどこで生まれてどこで死んでいくのか共同体的に記憶することができる。でもそんな「世界」に対して私たちそれぞれの個人はいつでもその「世界」を変換することができる。私たち一人一人がどんな一人であったとしても、一方で〈工作人〉だからである。あるいは、アレント風に言うとしたらこうも言える。
「世界」を変えるためには〈工作人〉の助けを必要とするのである。

| Posted: Riken Yamamoto

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