
May 12, 2010 12:33 AM | Category: 山本
人工物によって構成された世界の内側に私たちはいる。その世界に私たちは拘束されている。なぜ拘束されるかというとその人工物が人間の寿命よりも遙かに長くそこに存在し続けるからである。私たちよりも先にそこにあるからこそ、その「物」による世界が人間活動の秩序(基準)になるのである。それが世界という意味である。
「世界の物は人間生活を安定させる機能を持っているといえる。なるほどヘラクレイトスは、人間は二度と同じ流れの中にいることはできないといったし、人間の方も絶えず変化する。それにもかかわらず、事実をいえば、人間は、同じ椅子、同じテーブルに結びつけられているのであって、それによって、その人間の同一性、すなわち、そのアイデンティティーを取り戻すことができるのである」(同掲書p225)「同じ椅子、同じテーブル」というのは〈工作人〉によってつくられた「物」によってつくられる「人工的な世界(an artificial world)」の換喩である。ヘラクレイトスは古代ギリシャの哲学者。「万物は流転する」と言った。人間の活動もその都度変化するし、その都度失われていってしまう。それでもいつも同じ場所にある同じ椅子とテーブルのおかげでその活動は秩序付けられ、歴史に刻まれる。アイデンティティーを取り戻すというのはそういう意味である。そこに自分の活動を刻印することである。
アレントは「ものづくり」が何者か驚くほどよく知っている。
「地域社会圏モデル」は建築という「物」の側から今の社会(政治)について考えるという試みである。「物」の側から考えるということを、長い間私たちは忘れてきたように思う。「物」は単に社会の要請に従うものだとずっと私たち自身が思い込んできた。あるいはそう考えるように訓練されてきたということなのだと思う。CIAMにしてもアーキグラムにしても、あるいはメタボリズムにしても、そのテーマは社会の要請を受けて、いかにして社会のその変化のスピードについて行くことができるか、ということだった。社会の側に主体がある。建築はその僕である。1920年代の近代建築の黎明期からそれは建築家が改めて獲得した落としどころだったのである。そこが働き場所だった。
それが最大の間違いだったのである。
物の側から考えるという意味はそれをもう一度考え直してみようという試みである。その試みが「地域社会圏」である。
Permalink | Posted: Riken Yamamoto