
May 19, 2010 2:28 AM | Category: 山本
5月15日付けの「朝日新聞」に「伊勢佐木に音楽拠点」という記事が掲載されていた。"「ゆず」が命名「クロスストリート」"と副題にある。「施設は市の助成で取り組んだ活性化事業の一環で、同町3〜7丁目の商店主ら3000人が作る協同組合伊勢佐木町商店街(山本純市理事長)が三千万円かけてつくった」ということは説明されていても、誰が設計したのか、その建築については一言も触れられていない。ものをつくる人がそこにいる、という意識がこの記者(織井優佳)からはすっぽりと抜け落ちてしまっているのである。「協同組合が三千万円だしてつくった」この文章から読み取れるのはつくるという意味、あるいはつくるひとという意味が決定的に剥奪され漂白されてしまっているという現実である。建築は協同組合の人々の決断だった。実際に設計して作ることは、その決断の後にやってくるオートマティックな作業なのである。少なくともこの記者の意識においてはそうである。だから設計者が何者か、なぜこのような建築が発想されたのか、そこはまったく記者の意識の範疇にない。建築は見えていないのである。これはこの記者の問題ではない。この記事が今の日本のものづくりにたいする意識そのものなのである。
「労働」(labor)と「仕事」(work)との区別が失われてしまった。そこに区別があることすらもはや意識されていないというのがアレントの指摘だった。すべてが「労働」(labor)なのである。「労働」(labor)とは何者かつくらせる者の意志において、そしてその意志に基づいて忠実に活動することの総称である。「労働」(labor)する者はそのつくらせる者の意志に従ってそして効率よくつくる。つくらせる者の意志を効率よく実現さえできれば誰でもいい。その人の思想は問われない。それがものづくりに対する多くの人たちの意識である。
「クロスストリート」と名付けられてこの建築にSALHAUS(安原・日野・栃沢、三人による設計事務所)が関わらなかったら、できあがっていたとはしても、単なるプレハブで終わっていたと思う。実際伊勢佐木町の協同組合の人たちはそれでも良いと思っていた、という裏話を日野さんから聞いた。それを、それもローコストで、こうしたシンボリックなかたちの小ホールにしたのは日野さん栃沢さん安原さんの功績である。この建築はこの場所にとても良く似合っている。とてもいい。こういう建築が「地域社会圏」の中心になるのである。意識としての「地域社会圏」をつくっていくのである。組合の人たちの様々な意見をまとめて実現までたどり着くまでの困難は日野さんから直接聞いたけど、想像できる。もしこの"かたち"ではなくて、単なるプレハブ建築だったら、伊勢佐木町はこれほど盛り上がっただろうか。アーティストは気合いが入るだろうか。
この「ものづくり」の意志や思想がこれほどまでに無視されるのは、アレントのいうとおりで、あらゆる創造活動が「労働」(labor)の結果だと思われているからである。これは近代社会、特に遅れて近代化に参加した国に固有の「ものづくり」に対する偏見である。さらに日本の長い間の中央集権制度のおかげで思想の上意下達が多くの人たちに身体化されてしまっているという、もう一つの特殊事情もあるけど、この話はいずれまた。
Permalink | Posted: Riken Yamamoto