June 7, 2010 1:04 PM | Category: 山本

山本です。「クロスストリート」続き

生産の現場に近ければ近いほど、その「ものづくり(工作人)」に対する偏見はより大きくなる。そうした傾向が日本では特に激しい。偏見といってもいいし差別と直截にいってもいい。思想は上流から下流に伝達されると思っているのである。生産の現場が最下流である。前回話をした思想の上意下達とはそのような意味である。自分は上流にいると思っている人ほどそれが身体化されているように思う。そうじゃなかったら、この「朝日新聞」の「クロスストリート」に対する扱いが説明できない。日野さんからもメールをもらって憤っていると言っていたけど、これは日野さんたちだけの問題ではない。ここに最も本質的な矛盾が隠されているのである。
私がアレントに惹かれるのはこの本質的な矛盾に気がついている極めて少数の人の一人だと思うからである。
「世界」は人工的な「物」によってできている。その人工物による「世界」に私たちは決定的に拘束されている、とアレントは言う。その「世界」によって拘束されてその拘束性に無自覚なまま「世界」にとどまることもできるし(日常への頽落、ハイデガー)、その「世界」を自覚的に変えることもできる。
アレント解釈の本を何冊か読んでみたけど、多くの解説者はこの「世界」という言葉の意味をほとんど理解していないようにみえる。(あるいは私自身が自分に都合の良いようにアレントを解釈してしまっている、ということもあると思うけどね)人工物によってできている「世界」という意味をむしろ敢えて理解しようとしないのである。世界はもっと抽象的な単なる思考の範疇という程度の意味として理解されている。つまり世界について考えることは、いわば川の上流で考えられるべきことで、最下流のたかだか「ものづくり」なんかとはまったく無縁である。そう考えたいのだと思う。
そこで、何人かの人の建築に対する考え方を引用する。建築あるいは建築家はこのように見られているんだという、ちょっとショッキングな文章である。

池内紀(ドイツ文学者)神奈川県立美術館葉山館「大切な風景」
「『誰の設計?』(中略)『エーと、なんと言ったかナ・・・』某設計事務所。(学芸員が)名前を思い出せないのは、とてもいいことである。近年は逆のケースがもっぱらだ。まず建築家が言われ、取りざたされ、看板のように出しゃばっている。
美術館の主役は作品であり、それを用意した人、大切に守っている人、つまり、ここで『暮らす』人たちなのだ。建物はそのためのウツワである。過不足のない容器であればいい。にもかかわらず建築家が我がもの顔に立ちはだかり、ジャマ立てをする。作品のために壁をいじくり、片隅に押しやり、気の好い来訪者を疲れさせる。」


井上ひさし(劇作家)多目的ホールは無目的ホールに堕落します「神静民法」2007年4月29日
「(前略)ちなみに私たち『こまつ座』は、機関誌[the座]のために、全世界の1000の劇場に連絡、そして資料を取り寄せ、支配人にアンケートした資料があり、日本で一番、劇場に詳しいと思います。世界の劇場はみんな、一見平凡な型をしています(そこに劇場の本質があります)。へんてこりんでいいのは演目(だしもの)だけです」

桧森隆一(嘉悦大学教授)「建築ジャーナル」2010年4月号
「公共建築を設計する建築家にお願いしたいことは、謙虚な姿勢で市民のニーズを把握し、それをコストパフォーマンスよく形にすることのみである。」

ほんの断片的な文章だけど、情けないことにこれが今の日本の水準である。この三つの文章に共通して見られる態度は、建築家の仕事は上流からの思想に忠実であるべきだという態度である。上流というのは劇場であれば劇作家やその劇場で活動する人たち、美術館であれば学芸員、公共建築であればその利用者、そういう人の意見あるいは思想のことである。建築家の仕事はその思想を忠実に反映することだけを考えて、「コストパフォーマンスよく形にすることのみである」余計なことをするなという。ここからは建築家に対する嫌悪感さえ読み取れる。私はアジアでも中国でも韓国でも、ヨーロッパでも仕事をしているけど、こんな国は日本だけである。
井上さんが1000の劇場から意見を聞いたというけど、それは劇作家、あるいは演劇を提供する側からという立場においてである。同じ劇場を見るにしても、それを見る立場は様々である。それをまったく無視して1000の劇場から意見を聞いたというそれだけの理由で日本で一番劇場に詳しいというのはあまりに傲慢だと思う。百歩譲っても、ある一つの立場においては、という限定的な条件のもとで「日本一」なのだろうと思う。「日本一」かどうかは言う人の勝手だと思うけど。もっと問題なのは「へんてこりん」なものに対する認識である。
あらゆる新しいものは、最初は「へんてこりん」なものとして今の社会の日常の中に登場する。そして「へんてこりん」なものは時に日常を覚醒し、時には社会を変える力を持っている。誰でも「へんてこりん」なものをつくり提案する権利があるはずなのである。それは万人に平等に与えられている権利なのである。時にはそれは義務である。思想は上流から下流に伝達されるという思い込みは、「へんてこりん」なものを考えつくる権利、それを解釈する権利は上流に位置する者にのみ与えられる特権であるという思い込みである。「へんてこりんでいいのは演目(だしもの)だけです」という井上さんの言葉からはそうしたあまりにも偏った態度が伺える。多分、軽い冗談のつもりで、そんなことは考えてもみなかったのだと思うけど、作家としては非常に無防備な発言である。自分の偏見にまったく気がついていない文章なのである。そうなのだ。「ものづくり」に対する根源的な偏見が自分の中に潜んでいるという自覚は多くの人に決定的に欠けているのである。井上さんのような高い知性をもっているはずの人においてすら、なのである。世界の優れた劇場はみんな「へんてこりん」である。井上さんの目からはいかに平凡に見えたとしても、それらはその時代の建築家の強烈な個性によってつくられているのである。
池内さんの指摘は、建築の現場でどのようなことが行われているか、それをまったく知らないが故の誤解である。建築家と学芸員はその設計のプロセスで徹底的に話し合う。できあがった建築は学芸員と話し合った結果でもあるわけである。つまりこの美術館では建築家の名前を忘れるような話し合いしかしてこなかったのである。葉山の県立美術館はイギリスのサッチャー政権の時に発明されたPFIという民間の資金を調達する方法でできている。学芸員が設計者の名前を知らない等という驚くべき不毛はこのPFIという設計・建設の手法故である。この問題については機会があればまた書きたいと思うけど。
SA.LHAUSのクロスストリート問題は実は、建築という日本ではほとんど認知されていない「仕事」(work)に対する偏見の本質なのである。朝日新聞の記事は単なるその偏見の結果に過ぎないのである。
使う人、つくる人の意見を聞け、その人の言うとおりつくればいいのだ、というのは一面正しそうに聞こえる。でも、その使う人は誰か、つくる人は誰か、それを考えると建築は極めて複雑である。誰のためにそれをつくるのかという問いは極めて本質的である。劇場は劇作家のためでもないしそれを管理する人のためでもない。あるいはそれを利用する特権的な利用者のためのものでもない。公共建築であろうと民間の建築であろうと、それがどのような用途の建築であったとしても、単にそれはそれをつくる人、利用する人のためだけのものではない。それじゃあ誰のためにつくるのか。それがどのような建築であったとしても、その建築はその地域社会にどのように貢献するか、それを問われる。私たち「ものづくり」がまずそれを問われるはずである。
建築家の側からの視点の中心はそこにある。だからどんな施主が登場しようと、どんな特権的な利用者が登場しようと、誰が命令しようと、まず私たちはその地域社会の中で私たちのつくる建築がどのようにその地域社会に対して貢献し得るのか、それを考える。そこが建築家の仕事の中心課題である。アレントのように言うなら、私たちの「仕事」(work)は「世界」をつくる仕事である。単純にいうと環境をつくる。地域社会の中の一つの環境としてその建築について考えるのが私たちの仕事であると思う。井上ひさしさんにしても池内紀さんにしても、建築は内側の機能だと思っている。その機能を充足させるのが建築家の役割だと思っているようなのである。だからどう使うのかそれを使う人に聞け、という理論である。それはその通りだと思う。使う人の意見は常に私たちにとって重要条件である。でもそれ以上に重要なのはその建築が未来のかなり先までそこに残るであろうということである。アレントの言う「世界」という意味の本質である。私たちはそこに責任を負っている。単に現在的な施主の要望に画一的な答えをもって答えることが「仕事」(work)ではないのである。

「画一主義は社会に固有のものであり、それが生まれたのは、人間関係の主要な様式として、行動(behavior)が活動(action)に取って代わったためである。」(p65「人間の条件」)行動(behavior)というのは規律をもった活動のことである。フーコーのいう"ディシプリン"によって統制された行動のことである。ついでにフーコーを論じた桜井哲夫さんの本を引用すると、「フーコーは何が正常か異常か、あるいは何が正当か異端かを決定する『規格化』の権力の広がりこそが重要だと述べます。裁判官だけではなく、教師、医師、行政職員にいたるまで皆が『裁判を行う者』となって『規格』に合致しない存在をチェックし続けている。これこそが近代社会の監禁のネットワークを支えていると言うのです。」(「フーコー」p161講談社選書メチエ)
私たち建築家の「仕事」(work)はこの監禁のネットワークに棹さしているんだろうねえ。

| Posted: Riken Yamamoto

ページのトップへ