
July 20, 2010 12:56 AM | Category: 山本
しばらく間が開いてしまった。この間に、「地域社会圏モデル」の第二幕が始まった。つい最近第二幕の最初のミーティングがあったばかりだけど、ここでは、その「地域社会圏」のバックグラウンドをもう少し詳細に考えてみたい。
ハンナ・アレントを手がかりにして「地域社会圏」を考えてきたけど、その次のシリーズである。
私たちが相手をしている「建築空間」とは何か、あるいは私たちの「活動」(action)を支えている「建築空間」とは何か。それを本質的な問題として考えて行きたい。
家族にしてもコミュニティーにしても、あるいは何らかのアソシエーションにしても、そうした集団は常にその集団に固有の空間と深く関係している。あるいは親密性、公共性、私性といったその集団における個人の様々な活動や活動の属性は、その活動と共にある空間と深く関係している。
空間というと抽象的過ぎるのでもっと単純に直截にそして分かり易く言うと、「建築空間」である。「建築空間」というのは具体的な建築の内部空間であり、その建築とその周辺との関係によってつくられる外部空間である。物理的な空間である。様々な活動はそうした「建築空間」と深く関係している。ところがそれがあまりにも深く関係しているものだから、私たちは自分たちがその「建築空間」の中にいることをときとして忘れてしまうのである。私たちが大気中にいて呼吸していることを日常生活では忘れているのと同じである。「建築空間」の中にいて、そこでの様々な活動がその「建築空間」によって支えられているのに、それを忘れてしまう。その「活動の意味」を「建築空間」と共に認識しているはずなのに、それを忘れてしまうのである。忘れるというよりもそれを全く意識しない。無意識なのである。
何でこれほど無意識なのか。私たちの様々な活動が「建築空間」と共にあるはずなのにそれに気がついかない。それは何故か。
私たち設計者はその建築空間に直接関わる仕事をしているから気がついているけれども、その様々な活動が「建築空間と共にある」ことを無意識化させる力が働いているのである。
私たちの日常が建築空間と共にあることを無意識化させる力が働いている。大袈裟な、と笑われるかも知れないけど、改めて考えてみれば、建築空間の無意識化は管理する側から見ると極めて重要なのである。「建築空間」は常にどのような場合でも、それは管理された空間である。空間の管理はそこでの活動の管理である。「建築空間」がそこでの様々な活動と深く関わっているとしたら、逆に、「建築空間」を制御(コントロール)することでその「建築空間」の中の人たちの様々な活動を管理することできるのはむしろ当然である。「建築空間」は歴史的にもそのような役割をふんだんに担ってきているのである。もちろん今でもそうである。
でも問題は、「建築空間が管理空間」である、というところにあるのではなくて、その無意識化である。「建築空間が管理空間」であるという当然のことが私たちの日常の背後に隠されている。それが問題なのである。隠されているということはその管理の主体が隠されているということである。そして、実際、「建築空間」は多くの人が知らないところで実に巧妙に制御されている。制御する主体はよく見えない。だから多く人たちは自分たちが「建築空間」の中にいてそれを媒介にしてそこで管理されていることに気がつかないのである。「建築空間」を媒介にしてコントロールされていることに気がつかないのである。
「建築空間」を見えないように制御(コントロール)する方法は次のようなものである。
一つは「建築空間」の管理の方法の単純化である。産業革命以降、特に19世紀後半から第一次世界対戦期を挟んで20世紀前半にかけて発明され洗練されてきた方法である。建築の側から言うと「近代建築」の方法がその方法である。「近代建築」の方法は「建築空間」を機能類型ごとに切り分ける。たとえば住宅、オフィス、工場、病院、図書館、保育園、幼稚園、学校、劇場、美術館等々、「建築空間」を機能類型ごとにそれぞれ独立した一つの建築と見なすのである。「建築空間」のその境界は、実際は極めて曖昧である。その建築とその周辺との関係を含めて「建築空間」なのである。それを切り分ける。「建築空間」が機能類型と敷地(所有権)によって切り分けられる。その切り分けられた「建築空間」は「施設」と呼ばれる。「施設」は「単一機能・単一敷地」である。ここで重要なのは「建築空間」が一つの独立した「施設」として切り分けられることによって、それを管理する方法が極めて単純化されるということである。つまり「単一機能・単一敷地」に切り分けられた様々な「施設」は同時に国家的な行政システムとぴったり重なるように配置されることが可能になるわけである。たとえば厚労省や国交省や文科省や経産省やその他国家行政の行政システムの管轄下に置かれて、それが法制化される。つまり、全国一律中央集権的な管理が可能になるという意味である。病院にしても、図書館にしても、小学校にしても、住宅にしても、それぞれの監督官庁の管理の下で全国一律的標準施設ができあがる。たとえば住宅だったら公営住宅法によって、学校だったら学校教育法、図書館なら図書館法、病院なら医療法、あるいは各省庁の省令や'告示'や'通達'などの指導によって日本の北から南まで標準的な施設が可能になるわけである。一方、「単一敷地」ごとに切り分けられるということは、周辺との関係が不問になるということである。「建築空間」はそれ自身であると同時に周辺との関係でもある。ところが「施設」としての建築はその周辺との関係を問われることなく計画され実現されるのである。行政システムがセクションごとに排他的に縦割りになって、その行政システムに則って一つの施設が一つの敷地に配置されるからである。
「建築空間」を一つの独立した施設として扱う。そしてその独立した施設を管理(制御)する。これは実は極めて巧妙な管理方法である。つまり国家を運営するときの運営方法として極めて巧妙にできているという意味である。私たちは今やそうした施設がそれぞれ敷地ごとに独立した施設であることをほとんど当然のように受け入れてしまっているのである。
「建築空間」は特に日本では徹底して「施設」として扱われる。「施設」という意味は繰り返すけど、「単一機能・単一敷地」に切り分けられた行政管理の対象となる建築空間という意味である。一つの敷地のその内側に限定され、その内側で完結している建築のことである。つまり「施設」という言葉が意味するのは、公共建築であれ民間建築であれ、その施設の単一機能であり、周辺環境からの独立性(孤立性)であり、(国家)行政の徹底した管理下にあるということである。
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July 25, 2010 6:18 PM | Category: 山本
それではその「単一機能・単一敷地」の施設がなぜ私たちの無意識と結びつくのか。
これも私たちの活動が「建築空間」の中にあるということと深く関係している。「建築空間」の中に現れる私たちの現れ方と関係している。「建築空間」の中では、私たち個人個人は常に、「表象(身分、肩書き)」として現れるからである。その建築空間の中では私たちは「あらかじめ定められた行動様式」に意識的、無意識的に従っているのである。「定められた行動様式」というのはいわば「作法」である。ハンナ・アレントはそれを'behavior(振る舞い)'と言った。(「人間の条件」p65)私たちは建築空間の中では表象されたその人にふさわしい振る舞い方(作法)に則って行動する。建築空間はその作法ができるだけスムースに行われるように設計されているのである。「個人が社会的地位にふさわしいものでなければならないという態度」(同掲書)が尊重されるように設計されている。たとえば学校だったら、先生は先生らしく、生徒は生徒らしく振る舞うことができる(作法に則ることができる)ように、病院では医者、看護婦、患者の序列をどんな場面でもできるだけ忠実に再現できるように、ホテルだったらそこに来るお客さんが、品のいいおじさんおばさん、良家の子女のごとく振る舞えるように設計される。あるいは住宅だったら、優しいママ、元気なパパ、賢い子供たちを演じられるようにつくられる。建築空間にあらわれる人間は、一人一人個性をもった人間としてではなくて、その社会の命ずる「作法」に従った「表象」としての、つまり社会的な役割としての人間なのである。建築空間の中に登場する人間はそうした「表象」として以外に現れようがないのである。それが「建築空間」である。「建築空間」は「表象の空間」なのである。
そこで、である。その建築空間が表象の空間であるとしたらそれを「施設」として扱うことで、そこに登場する登場人物たち、つまり利用者たちを画一的なそして固定的な表象として扱うことが可能になるのである。「施設」としての建築空間は、単一の機能に則ってつくられる。劇場、図書館、美術館、学校、特別養護老人ホーム、幼稚園、住宅など単一機能の施設である。そして、その施設は一つの敷地の内側につくられる。その敷地の外側とは関係を持たない。なぜならその外側との関係はその施設の単一機能を壊す恐れがあるからである。施設はあらかじめ敷地を決められ、機能を決められ、その単一性が保証されているわけである。だからこそ、その施設の利用者像(表象)はその単一性に見合うように極めて画一的な、つまり標準的(ノーマル)な人間として扱うことが可能になるわけである。その標準化がつまり見えない管理の仕組みの本質である。
「(管理された)社会は、それぞれの成員にある種の行動(behavior)を期待し、無数の多様な規則を押しつける。そしてこれらの規則はすべてその成員を『正常化(normalize)』し、彼らを行動(behave)させ、自発的な活動や優れた成果を排除する傾向をもつ」(前掲書、p64)というアレントの指摘は、それがそのまま「管理」あるいは「統治」の本質である。(管理された)という括弧内の補足は山本による。アレントは'社会'という言葉を極めて限定的に使う。私的に管理された集団関係を社会と呼んでいる。そして「統治の最も社会的な形式は官僚制である」(同掲書p63)とアレントは言う。そうだとしたら、逆に言えば官僚制がつくる統治のシステムによって運営されている今の私たちの生活が社会である。つまり「建築空間の施設化」は「官僚制」の本質なのである。「官僚制」とは統治者の見えない統治システムのことである。様々な施設においてその利用者は常に標準的(ノーマル)な人間として期待され、あるいはそのように教育されるのである。でも、多くの人はそんなことは意識もしない。「建築空間」の無意識化は、つまり、管理された空間の無意識化であり、その空間を使う人たちの標準化なのである。
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July 26, 2010 8:08 PM | Category: 山本
無意識化のもう一つの側面は、「建築空間」の設計者たちを施設設計の技術者として管理することである。
本来「建築空間」の最も重要な担い手である建築の設計者を「技術者」として、徹底して国家の管理下に置くというシステムである。日本での建築教育は明治新政府によってその骨格がつくられた。それ以降工学部の中にあって技術者教育が徹底されている。「技術者」という意味は、あらかじめ切り分けられた施設の設計者として、なぜそれがそのように切り分けられているのか、その根拠を疑わないで設計する人という意味である。日本では優れた技術者というのはそういう技術者である。ちなみにこれは建築の業界に限らない。自動車業界も機械も電気もエレクトロニクスもどのような業界であっても技術者の置かれている立場は変わらない。与えられたテーマ(何のために誰のためにつくるのか)のその思想的根拠を疑わずにひたすら「切り分けられた物」としての製品の効率や経済効果を上げる役割である。技術者の扱うのは単なる「物」であり「施設」である。「技術立国日本」なんていっても、技術者の無思想化が徹底されているだけなのである。そして建築の設計者もまたそうした技術者の一員として制度の中に組み込まれているわけである。私たち建築の設計者が扱う対象はあらかじめ切り分けられた「施設」の設計なのである。
繰り返すけど、「建築空間」を通じて私たちの日常がいかに管理されているか。管理の方法は「建築空間」の、その施設化である。「施設」を標準化(normalize)することによって、標準的(normal)な行動様式(behavior)が誘導される。つまり「建築空間の施設化」と官僚制度(統治者の見えない統治システム)とはいわば一枚のコインの裏表である。その施設を使う多くの人たちは、その施設が機能的にできあがっていると信じていると思う。「機能的」という意味は「単一機能・単一敷地」に切り分けられた施設として、その切り分けられ方に忠実にできているという意味である。「標準的」という意味とほとんど同じになってしまっているのに、全くそれを疑問に思わないのである。「建築空間」は機能的であればそれでいいんです、という人がいまや圧倒的大多数なのである。
「施設」の設計には何らかの固有の意志を持った設計者というのは登場しない。設計者はその施設の標準化に従事する忠実な標準設計技術者なのである。「施設」にはどこにも誰かの意図や意志が介在していない。ただ機能的にできている。「建築空間」とはそのようなものだと考えられているのである。「建築空間」をそのようなものだと考えることによって施設化が完成する。それが「建築空間」の無意識化の本質である。
さらに言えば、その「単一機能・単一敷地」に切り分けられた施設たちをもう一度相互に結びつけるシステムがインフラ・ストラクチャーである。交通やエネルギーや上下水道や情報網などである。つまり、今の私たちが生活している空間は日本中に整備されたインフラとそこに接続されて、それぞれに孤立している「施設」群によって成り立っているというわけである。そのように計画され、そしてそのように私たちは認識しているはずである。
1960年代に建築家が提案した都市像がそのようなインフラとそのインフラに接続された施設群による都市像であった。たとえば丹下健三の「東京計画1960」では東京湾を縦断する巨大インフラをつくる。そのインフラに住宅を含む様々な施設を接続させて東京全体を再構築しようという提案である。あるいはイギリスの若手建築家グループ「アーキグラム」のplug in city計画は搭状のインフラに施設化されたユニットがplug in される。「施設」はもはや人間を収容する単なるカプセルである。あるいは日本の「メタボリズム」の提案も動かないインフラと必要に応じて変換可能な施設群によって構成された都市像である。この60年代の建築家たちの都市像は、インフラがまずあってそれに従属する建築というイメージである。多くの建築家たちの興味が建築から都市へとシフトし始めたのもこの頃である。
「建築空間の施設化」は一方でそれを支えるインフラの充実が必要条件である。十分なインフラに接続されてはじめてそれに従属する施設化が可能なのである。張り巡らされたインフラのネットワークとそれに接続される従属する全国一律標準的な「施設」というイメージは私たちがいまだに持ち続けている生活空間の鳥瞰的イメージである。つまり「単一機能・単一敷地」の施設とそれを支えるインフラの関係なのである。
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July 27, 2010 11:30 AM | Category: 山本
7月23日の第一回「地域社会圏モデル」プロジェクト会議の出席者は
各企業名を公開していいという了解をもらっていないので、今は言えないけど、
横浜の大企業の技術者部隊が総決起したような会議だった。
それとY-GSA生17人、山本スタジオと横浜国大産学協同のステアリングメンバー。
Y-GSAの想像力が問われている。参加者たちからも圧倒的に支持されるようなラディカルな「地域社会圏モデル」を考えよう。
この会議の記録が重要です。毎回議事録をとって各参加者たちに送ってください。同時に参加者たちの発言に対する回答、感想を議事録上に掲載してください。議事録がそのままそれぞれの参加者たちの発言のプラトットフォームになるといいと思うのですが。INAXの高田さんに、相談にのってください。
二つの敷地の周辺環境特性を調べてください。
この敷地に住む人に対してサポートする人たちの可能性についてしらべてください。医者、看護士、福祉士など、あるいは
小規模多機能施設とコンビニが一体になった場合、どの程度の人員が必要なのか、いくらぐらい人件費がかかるのか。ボランティアにはいくら払うのか。どの程度の人数が被介護の対象なのか。あるいは被保育の対象なのか。
ここには主婦(無給労働者)がいることを前提とするのか。
周辺の産業との関係はどうするのか。
この場所で何らかの経済活動が可能なのか。
マネージメントは誰がどのようなコンセンサスの元にするのか。自動制御の技術は役に立つのか。
マネージメントの計画は管理計画でもある。ここの住民たちは被管理者なのか。
エネルギーを含むインフラどこから供給されるのか。基本的に自給自足を目指すのか。
交通インフラは「地域社会圏」の内側の問題であり、外側との関係の問題である。新たな交通インフラを目指すのか。
「地域社会圏」の緑化と菜園の可能性。
ゴミはどのように処理されるのか。
というようなことを調べつつ、次の会議までには模型をつくりたい。最低でも末光チーム一つ、仲チーム一つ。
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July 30, 2010 8:49 PM | Category: 山本
ハンナ・アレントの「人間の条件」は読めば読むほど面白い。アレントは猛烈に書くのが早かったらしい。思いついたことをそのまま書きまくったのである。この本にしても、全体が整理されているわけではなくて、ときには様々な場所に同じようなことが断片的に書かれているので、それをつなぎ合わせるのが結構大変。ときにはパズルのようなことになる。「社会」という言葉もそうだ。「社会」はもともとは極めて私的な集団関係だった。たとえば"Engslish Speeking Society"というときのSocietyような使い方、あるいは18世紀のサロンのような内輪のコミュニティー、そういう私的な関係だった。それが何故、一般的な生活世界を表す言葉になったのか。産業革命以降、生活世界が標準化され画一化されるに従って、その画一化された環境を表す言葉が「社会」という言葉に重なっていったのである。「家族の集団が経済的に組織されて、一つの超人間的家族の模写となっているものこそ、私たちが『社会』と呼んでいるものであり、その政治的な組織形態が『国民』と呼ばれているのである」(p50同掲書)
国民国家は"大きな家族"の模写である。その"大きな家族"が経済的に組織されて、その組織が「社会」である。なんだかわかりにくいけど、日本の天皇制がそうした組織である。旧帝国憲法においても、あるいは今の象徴天皇制においても同じである。日本に限らず経済的に管理された近代国民国家の基本的な骨格がこうした"大きな家族"であるというのがアレントの解釈である。
私(山本)から見ると、この解釈は極めて分かり易い。家族という単位が国民国家を構成する最小単位なのである。この単位は極小の単位である。極限まで切り詰められた単位である。機能はただ一つ、生む単位である。国民を生産することに特化した単位である。生んで育てる。国民として教育する。その極限まで切り詰められ孤立化された単位を再統合するときに考案されたのが"大きな家族"としての国民国家である。つまり、社会というのはこの国民国家との関係である。「地域社会圏」という視点で見ると、「1住宅=1家族」という孤立した単位があって、その上位の集団として国民国家を仮構する。つまりその「1住宅=1家族」と国民国家との関係が「社会」である。「S」と「L」との関係である。「M」がない。それが「社会」である。
そういう意味では「社会」は近代に固有の言葉であり、官僚制的統治システムと深く関わっている言葉である。
「社会」は「「活動」(action)を行動(behavior)に変え、人格支配を官僚制ー無人支配ーに変えた」とアレントは言う。(p69)でも、これはちょっと言い過ぎかも知れないと私(山本)は思う。行動(behavior)はどのような集団においても、その集団の言語のようなものだと思うからである。必ずしも「社会」に固有のものではないように思う。このあたりの話は「表象の空間」のところで説明した。
社会という言葉は「人間の条件」の様々な場所に登場するけど、つまり、(近代)社会は「M」集団が消失した国家の直接支配であり官僚制統治システムであり、行動(behavior)の画一化であり、あらゆる建築空間の施設化である。
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