
July 26, 2010 8:08 PM | Category: 山本
無意識化のもう一つの側面は、「建築空間」の設計者たちを施設設計の技術者として管理することである。
本来「建築空間」の最も重要な担い手である建築の設計者を「技術者」として、徹底して国家の管理下に置くというシステムである。日本での建築教育は明治新政府によってその骨格がつくられた。それ以降工学部の中にあって技術者教育が徹底されている。「技術者」という意味は、あらかじめ切り分けられた施設の設計者として、なぜそれがそのように切り分けられているのか、その根拠を疑わないで設計する人という意味である。日本では優れた技術者というのはそういう技術者である。ちなみにこれは建築の業界に限らない。自動車業界も機械も電気もエレクトロニクスもどのような業界であっても技術者の置かれている立場は変わらない。与えられたテーマ(何のために誰のためにつくるのか)のその思想的根拠を疑わずにひたすら「切り分けられた物」としての製品の効率や経済効果を上げる役割である。技術者の扱うのは単なる「物」であり「施設」である。「技術立国日本」なんていっても、技術者の無思想化が徹底されているだけなのである。そして建築の設計者もまたそうした技術者の一員として制度の中に組み込まれているわけである。私たち建築の設計者が扱う対象はあらかじめ切り分けられた「施設」の設計なのである。
繰り返すけど、「建築空間」を通じて私たちの日常がいかに管理されているか。管理の方法は「建築空間」の、その施設化である。「施設」を標準化(normalize)することによって、標準的(normal)な行動様式(behavior)が誘導される。つまり「建築空間の施設化」と官僚制度(統治者の見えない統治システム)とはいわば一枚のコインの裏表である。その施設を使う多くの人たちは、その施設が機能的にできあがっていると信じていると思う。「機能的」という意味は「単一機能・単一敷地」に切り分けられた施設として、その切り分けられ方に忠実にできているという意味である。「標準的」という意味とほとんど同じになってしまっているのに、全くそれを疑問に思わないのである。「建築空間」は機能的であればそれでいいんです、という人がいまや圧倒的大多数なのである。
「施設」の設計には何らかの固有の意志を持った設計者というのは登場しない。設計者はその施設の標準化に従事する忠実な標準設計技術者なのである。「施設」にはどこにも誰かの意図や意志が介在していない。ただ機能的にできている。「建築空間」とはそのようなものだと考えられているのである。「建築空間」をそのようなものだと考えることによって施設化が完成する。それが「建築空間」の無意識化の本質である。
さらに言えば、その「単一機能・単一敷地」に切り分けられた施設たちをもう一度相互に結びつけるシステムがインフラ・ストラクチャーである。交通やエネルギーや上下水道や情報網などである。つまり、今の私たちが生活している空間は日本中に整備されたインフラとそこに接続されて、それぞれに孤立している「施設」群によって成り立っているというわけである。そのように計画され、そしてそのように私たちは認識しているはずである。
1960年代に建築家が提案した都市像がそのようなインフラとそのインフラに接続された施設群による都市像であった。たとえば丹下健三の「東京計画1960」では東京湾を縦断する巨大インフラをつくる。そのインフラに住宅を含む様々な施設を接続させて東京全体を再構築しようという提案である。あるいはイギリスの若手建築家グループ「アーキグラム」のplug in city計画は搭状のインフラに施設化されたユニットがplug in される。「施設」はもはや人間を収容する単なるカプセルである。あるいは日本の「メタボリズム」の提案も動かないインフラと必要に応じて変換可能な施設群によって構成された都市像である。この60年代の建築家たちの都市像は、インフラがまずあってそれに従属する建築というイメージである。多くの建築家たちの興味が建築から都市へとシフトし始めたのもこの頃である。
「建築空間の施設化」は一方でそれを支えるインフラの充実が必要条件である。十分なインフラに接続されてはじめてそれに従属する施設化が可能なのである。張り巡らされたインフラのネットワークとそれに接続される従属する全国一律標準的な「施設」というイメージは私たちがいまだに持ち続けている生活空間の鳥瞰的イメージである。つまり「単一機能・単一敷地」の施設とそれを支えるインフラの関係なのである。
Permalink | Posted: Riken Yamamoto